2012年5月23日水曜日

からだと境界と宇宙


昨日は身体(人体)と宇宙(世界)とフラクタルの 雑な話をした。
忘れないうちに雑にまとめとく。しかし頭がおかしいね。中心は「境界」のはなしだから、周辺部分は雑。少しずつふえたり削ったりする。
いまのとこd以降はあやしい。


a身体と宇宙はマイクロコスモスとマクロコスモスと言われるように、フラクタル図形とも言える類似がある。それを比喩でないものとして捉え、身体と宇宙の作りに連続を、つまり、世界を[内-境界-外]の連続体と見なす。

bからだは皮膚一枚めくるとグロテスクである。皮膚の外から見ればそうではないのに。しかしさらにマイクロに拡大すればそこに再び秩序だったものがあらわれる。あるいは富士山は遠くからみれば優美な曲線を描いているのに対し登山道に身を置いてみるとごつごつした岩や、捨てられたゴミが視界に映るだろう。

cわたしが「それ」を美しいとみるとき、わたしは「それ」の外にある。それのグロテスクをみる、あるいは「不気味なもの」をみるとき、わたしとそれの境界は消失し、わたしはそれに内在している。

dQ:境界を揺るがすものとしては芸術が最たるものかしら。

eこの世界を美しいと呼べるのはこの世界のそとにあるときだろう。グロテスクをみるとき、わたしは世界の内にある。たとえば、「夜と霧」。たとえば、ポル・ポトに殺されたしゃれこうべの山。たとえば、草間彌生のオブセッション的な水玉。

eQ:しかし、身体は本当にグロテスクなのだろうか。ぬるぬるとして赤くぶよぶよの身体は実は美しいのではないか。

fQ:外の外の外の…、のさきにはわたしがあるのかしら。

gQ:グロテスク[不気味なもの]と、美しいものの定義が問題だね。だからeQが出てきてしまう。

h:うーん。一皮むくとグロテスクなものが芸術なのだよ。「それ自身が一皮むけるorそれが世界の皮をむく」力のあるものが、芸術なだよ、ということになってしまう。芸術とはグロテスクと、グロテスクとは芸術の混同。


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