もともと文芸が専門なので主にストーリーへの感想です。
※あんまりひどい読み間違えしてる時は指摘してくださいorz
※1/30 21:00 微妙に登場人物の名前を間違ってる可能性に気づいてごまかし…劇団の人に指摘されなかったからたぶん間違ってない…のかもしれませんが。
※1/31 08:00 雪山の話は世にも奇妙な物語以前に都市伝説としてあったらしいですね。早合点に過ぎました…参考サイト。他の方のまとまった感想・批評も読みたい。みんなどう見てどう感じたの?
※あんまりひどい読み間違えしてる時は指摘してくださいorz
※1/30 21:00 微妙に登場人物の名前を間違ってる可能性に気づいてごまかし…劇団の人に指摘されなかったからたぶん間違ってない…のかもしれませんが。
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当日配布のパンフレット |
2011.1.29(日)14:00~
昨日、劇団工の旗揚げ公演『フジサン・窓のない部屋』を見にいってまいりました。その批評、というか感想です。
きっととんでもない読み間違えしてるんだろうなあ、とか思いつつそれでも書きます……どうか温かい目で見守ってやってください。
学生会館(諸サークルのクラブハウス)の地階・第三音楽練習室。小さなその部屋が今回の劇場でした。
学生会館運営委員という役職がありまして、かつてそれをやらせてもらおうと思って研修をしたことがあります。研修は一度受けたきり行かなくなってしまったのですが、その唯一の研修で日締め処理として各部屋の施錠を確認するというものがありました。
そのとき以来足を踏み入れるのは二度目。殺風景な防音壁の部屋は『魔改造』されておりました。
富士山型人口ピラミッドを90°に折ったと言えばわかるでしょうか…。ピラミッドの「棒」の端は
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のようにジグザグと、ランダムな感じで組み合わされていました。
ダークブラウンの木材で作られたそれは部屋の一角の壁を表しています。
その外側には白い布。部屋の外を埋める雪原ですね。
(ほんとは図を手書きしたほうが伝わるのだろうけど…今回は時間がないのでご容赦を)
┏━━□□
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┃ □□
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━…小屋のセット
□…客席
\…(いわゆる)花道。役者の出入り。小屋の外を表したりも。
配置としてはこんな感じでした。客席は30~40くらいだったかな。
客席と舞台が同じ高さで距離も本当に近い。
ちなみにピラミッドの頂点から45°の角度で、一本の木材が水平に伸び、その先に照明(裸電球)がついています。
小屋のセットの中には三つの線の細い椅子が配置されています。
セットの説明はこのくらいにして。本編の感想に入ります。
■フジサン
トンデモ科学雑誌の記者2人(男女)と、トンデモ探検家の男、遭難した仲間を探すトンデモロシア人科学者2人(男女)と雪男になっていた遭難者。以上6人が登場人物。名前はちょっと自信ない…ごめんなさいm(__)m
開演時間。
部屋は暗転し真の闇へ。
(なんか音楽が流れてた気もする)ぼんやり明かりがともると男が謎の…尻を天に突きだしたようなポーズで舞台に転がっている。
2人目の男が登場。超重装備の登山家。あたりを見渡すしぐさで観客席に手持ちのライトをてらし、何かを探している。何かって雪男なんですけど。
こうして科学雑誌記者と探検家が登場。「ピラミッド」に布をかけたかとおもうとオープニングムービーがそれに映写されるんです。
「たかいどたかいどフッジッサーン!」
(下高井戸)
とかムービーに合わせて言ってましたね。(下高井戸)は、たかいどというときに出てた画像(笑)
客席の後ろから「たかいどたかいどフッジッサーン!」という声がわっと響いてきて、客席も含めた「ドタバタ喜劇空間」の形成ですね。
先ほども述べましたが客席と舞台が近い!というか客席と舞台の境界があいまいともいうべきでしょうか。このつくりはなかなかうまくいっていたと思います。
物語は基本的にドタバタ喜劇、といってしまってよいでしょう。
さて、あまりあらすじをだらだら続けるのもあれですので、印象に残ったこと・考えたことを。
吹雪に閉ざされてしまった小屋でロシア人の2人は天候の好転するのを待っています。そこでドアをたたく音がして出てみると誰もいない…(実はかつての仲間「雪男」がいるのですが、雪男に受け継がれる外套が透明マントになってるという設定)。
そのあとで探検家一行も小屋になだれ込んできます。
しかし、なぜここで雪男は外套を脱いで姿を現さなかったのか。劇終幕近くにようやく姿を現すんです。
5人と一緒の空間にいて、非常食の1日分の野菜を勝手に3日で10本消費したり。
なぜロシア人の一人は
「大森ちょふなわけない」
(大森ちょふは遭難して雪男になったロシア人)と言ったのか。すでに死んでると思われてたのでしょうが、実際は雪男となっていた…。
でも、生きていたのなら、再会できたのならすぐに「透明マント」を脱いで姿を現せばよい。
ここで「雪男」という存在への違和感が立ち現れます。
きっと、雪男はもはや生きてはいないのだろう。
雪男に違和感を抱いてから私はそう考えました。
ロシア人2人は「西シベリア」にいるつもりで、探検家一行は「富士山」にいるつもりであったという空間的ねじれを表すシーンがありますがそんな違和も喜劇のうちにドタバタと流される。でも、これって結構重要なシーンなんじゃないかと感じました。のちにまとめて述べます。
さて、物語が進むにつれロシア人の2人も小屋の外へ消えてしまいます。1人(男)が消えるシーンがやけに印象に残ってます。というか残らざるを得なかった。ちょっとシーンの説明しますね。
皆が寝静まった夜、「セクシーダイナマイト」な音楽が流れピンクの照明がてらされ、ロシア人の男がくねくねと踊ります。ほんっとくねくね。
その手にあるのはコンデンスミルク。
くねくねとした踊りを終えるとコンデンスミルクを眠っているトンデモ科学雑誌の小柄な記者(女)のそばにおいて小屋の外へ。そしてもう帰ってきません。
朝になって記者(女)が目をさまし、コンデンスミルクに気づきます。
そして記者(女)はそれを吸い始める。口をつけて、あるいは高くかかげたチューブから垂れるものを口をあけて受け止めて。
それを記者(男)と探検家が見ている。
どう考えてもセクシャルな隠喩ですね。
ロシア人トンデモ科学者の男はただコンデンスミルクをおいていっただけなのか。否。それならあんなシーンをわざわざ入れる意味は無いわけですから。
時系列的混乱はありますが、ロシア人が記者の女に性的行為を行った、記者(男)と探検家はそれに気づきながらどうすることも出来なかった、と考えることができるでしょう。すでに空間的混乱を許容したのだから時間的混乱だっておかしくはない。
物語も終盤。部屋に残っているのは記者2人と探検家、それに雪男。
全員一度に寝ると凍え死んでしまうから1時間ごとに順番に起こし合おうと決める。
これは世にも奇妙な物語「雪山」のオマージュですね。というかこの作品全体も他に関連する伏線がちりばめられているかもしれません。昨日のことなのにずいぶん忘れてて悔しいな…。
世にも奇妙な物語「雪山」の概要はリンク先を見てもらえればわかるでしょうが、奇妙にねじれた話です。
もう一人いる!と気づき雪男のすがたを最初に見ることになるのは探検家なのですが、彼は雪男に「代わりに雪男をやってほしい。モテルよ!」と言われ、嬉々として雪男の透明外套をきて外に飛び出してゆく。雪男は記者2人をつれて下山すると言った雪男が小屋に残った記者2人を揺り起こすシーンで物語は終わる。
終幕までに消えたのはロシア人2人と冒険家。では残りは無事に帰れた?でも、先ほど述べたように雪男は生死が判然としない存在なわけで、彼は2人をどこへつれて帰るというのか。生と死の曖昧な境界線が酷く不安な、恐ろしい結末を予感させます。
本当は、もうみんな死んじゃったのかもしれませんね。あるいは、最初から誰もいなかったのかも…なんていうと身もふたもないですから、世にも奇妙な物語「雪山」を考慮するなら、生きていたのは女の記者ただ一人といったとこでしょうか……。
ドタバタの笑える喜劇としても十分楽しめましたが、時間・空間・生死のねじれのある「喜劇の裏側」も深いものでした。
最後に、パンフレットにあったいくつかの言葉について。
「六者六様、厳寒の山小屋で命を燃やす」という表現がありますが、やはり死を予感させずにはいられない。
「これは、喜劇だ。」と宣言していますが、まさしく喜劇でした。喜劇の薄皮をペりぺりと剥いでゆくって、恐ろしくって面白いこと。
そこにあるのはピエロの涙。
■窓のない部屋
はー書くの疲れてきた。ちょっと短くなってしまうかも。
同じキャストで別の物語です。セットは椅子の配置がちょっと変わるだけ。床に散乱した蒟蒻畑やら一日分の野菜やら博多の塩を片づけて二つ目の劇の始まりです。
大森ちょふ(雪男)が前劇からの床に散らばったままの「博多の塩」をなめるとこなんかでコメディからの連関を微妙につないでます。
舞台は同じく雪に閉ざされた建物で、男女(学生だろう)で旅行に来てるんですね。雪に閉ざされて帰れなくなってることも同じ。
で、仲間のうちの1人日十美がいなくなっている。きっともう帰ってこないような事態がおこったのでしょう。
日十美に思いを寄せる侑大と健太という男の子が登場しますが、日十美の恋人は日十美があたかもそこにいるかのようにふるまい、けがをした彼女をいたわる。劇のしょっぱなからその奇妙で不気味なシーンが続きます。
友人らはぎこちなくも日十美の彼に接しつつ…彼だけがあまりに自然すぎるほどに日十美と「接している」。
日十美が見えているのは湊一・侑大と健太の三人。半分と半分。狂気ってのは皆と違うことをいうのなら、はたしてどのくらいのマイノリティなら狂気と言えるのでしょう。狂気がマジョリティとなった時、それは。いや、もはや、過半数なのか、ヒトミを見えている側に数えるとするならば。
見えている側と見えていない側、微妙なすれ違いと違和感。見えていない側は侑大たちが日十美を失ったことを受け入れきれず空想のもとにあると思っていて、なるべく傷つけたくはないわけです。でも、彼らに合わせるのにも限界がある。
登場人物の一人、恵梨が日十美と「いちゃつく」彼にたいし「いい加減にしてよっ!」と悲痛に叫ぶ。
でも日十美の彼は「頭を冷やせ」という。彼はあくまでも冷静なのです。彼にとっては日十美がそこにいて、日十美をいたわるのは当然で。
見えている。
狂ってるのはどっちなのだろう?
ふと、ある逸話を思い出しました。
ドイツの収容所で捕虜となったフランス兵たちの話。
彼らは一人の少女を思い描き、あたかも彼女が存在するかのようにふるまう。その想像上の少女の存在でフランス兵たちは生きる希望を保てた。
場所は収容所と雪の密室で違えど、いつ抜け出せるかわからない状態には違いない。もしかしたらこの話をモチーフにしたのかもしれません。
日十美が見えるのは三人なのですが三者三様にヒトミのいた場所は・彼女の思いは食い違っていた。なぜなのだろうか。
彼らは自らの望む(それは意識的であろうとなかろうと)日十美をそのヒトミに移していたのかもしれない。あるいは、かれらの瞳の中にしかヒトミはいないのかもしれない。ヒトミという名前にはそんないみが込められてるんじゃないかな、とも思う。
さて、物語の終盤、恵梨が日十美の彼のことを好きだったとばれ、そして彼にふられた。
そして、恵梨も日十美が見えるようになった。ここで幕。
いや、見えない状態を抜け出せた、というべきなのか?
恵梨はもうきっとすり減ることに疲れて、見えることを望んだのだ。それは消極的な希望なのだけど。
どちらもきっと認識の、あるいは見ているものの物語…かな。
そうじゃないと二作並べる意味がないんじゃないかな、と思ってしまう。
アンケートにも、「見えましたか?見えませんでしたか?」「見えませんでしたか?見えましたか?」という質問を並べている。この構造は明らかに意識されているのではないか。
フジサンで外に消えてゆくことと、窓のない部屋でヒトミが見えていることが同義なんだろうな。
でも、雪山に消えることは暗闇で、狂ってしまえるのは救いだ。
そんな喜劇と悲劇。
いろいろぐちゃくちゃと考えたけど、言いたいことは「すてきな作品でした」だけなのかもしれません。
もうちょっといろんな演劇見てればいろいろ注文すべき点も見えてくるのだろうけど、なにせこれで二作目。感想ちゃんとかくのは初めて。拙な過ぎる文ですが、第一歩としてここに残します。
コンデンスミルクのくだりに一番行数割いているあたりは…なぜかそうなってしまったのですよ。ええ。
ともかく劇団工のみなさん、とっても面白かったです。
1/30 21:00 追記
この劇を見てない・演劇見たことない人も読めるようライトに書いたつもりですがなかなか魅力を伝えるのって難しいですね…。
しかしお芝居って一回性の芸術でしかも情報量がめちゃくちゃ多くて大変……まず私は登場人物の名前を覚える努力から始めます←
1/30 21:00 追記
この劇を見てない・演劇見たことない人も読めるようライトに書いたつもりですがなかなか魅力を伝えるのって難しいですね…。
しかしお芝居って一回性の芸術でしかも情報量がめちゃくちゃ多くて大変……まず私は登場人物の名前を覚える努力から始めます←