2012年6月22日金曜日

都合のいい説明について思ったこと

最近、学問における定義とかそういうのについていくつか考える機会があったからそれについてまとめておいてみる。
たぶん、これを考える下敷きに@_kanataくんの辞書を生きる;単語の定義についてという記事が頭にあったかもしれない。

(1)数学:素因数分解の一意性
ぼくがまだ高校生だったころの話。
駅前のFORUSの七階にジュンク堂という大きな書店があった。エスカレーターで上ってくると右手のほうには理系の書籍が並ぶ棚があって、文系ながら理系に憧れをもっていた僕はそこの本をたまに手に取って眺めていた。
そこで出会った本の一つが『数学ガール』。
そのなかに素因数分解の一意性の話がある。
「素因数分解の一意性を守るために?そんな勝手な定義でいいんです?」 「いいんだよ。勝手というと言い過ぎだけれどね...。数学者は、数学の世界を組み立てるために有用な数学的概念を見つけ出す。そして、それに名前をつける。それが定義だよ。」(『数学ガール』p18)
1をなぜ素数にふくめないのか?
それは1を素数に含めてしまうと、たとえば12を素因数分解したときに
12=3*2*2
12=3*2*2*1
12=3*2*2*1*1
……
というようにいくつもの分解の形ができてしまってやっかいなことになるから、[素因数分解の一意性を守るため]に1を素数には含めない、と定義してるんだよってはなし。ごちゃごちゃいっぱい出てくるよりひとつに定まったほうが数学的に有用なんですね。
これを読んだのはもうずいぶん前で、でもつい最近思い出したのは彼方くん(@_kanata)がそれについてつぶやいていたからでした。手元に数学ガールがないので引用部分も彼のツイートからの孫引き。
さて、次のはなし。


(2)歴史:物語論と間主観性
一体どうしてこのページにたどり着いたのかわからないけど、Wikipediaの歴史哲学のページを読んでたらこんな記述に出会いました。
20世紀になって、哲学が客観性の虚構性を明らかにしてからは、歴史は、現在の人間が後から過去の出来事を物語ることのなかに存在するのであって、物語から離れた中立・客観的な歴史というものは存在しないという「物語論」(narratology)が主張されるようになった。
しかしながら、そのような考えを誤って徹底させていくと、最終的には現在の個人個人が勝手に自分の歴史「物語」を紡いでしまい、コミュニケーションが成り立たない状態に陥ってしまう。また合理的に考えると実際に起きた出来事まで「所詮は主観だから」と勝手に修正してしまえば、歴史修正主義に陥ってしまう。
そのため、現在の歴史学では、限定的な客観性(間主観性)が保たれるものとして研究を進めることが一般的である。その客観性とは合理性に基づくものである。例えば徳川家康が存在したと我々が決めることができるのは、様々な文献や遺物・遺跡から、家康という人物が存在したと仮定するほうが、しないよりも合理的にこれらの証拠を辻褄つけられるからである。
間主観性を仮定するほうが、しないよりも合理的、というのは先ほどの素因数分解の一意性の例とも共通するものがありますね。
Web上の辞書で調べると間主観性は、
 【相互主観性】
〔(ドイツ) Intersubjektivität〕自我だけでなく他我をも前提にして成り立つ共同化された主観性。フッサールなど現象学派を中心に研究され、知識や科学・文化などは、これを根底に成立する。間主観性。共同主観性。
とされています。歴史学だけの話じゃないわけですね。
現象学はまだよくわからないので深入りはしません…。
さて、三つ目。

(3)神経科学:意識のハードプロブレムの棚上げ
6月15日(金)一橋大学で行われた、大阪大学のグローバルCOEプログラム「認知脳理解に基づく未来工学創成」主催のワークショップ「美は分析できるか?――神経美学のこれまでとこれから」
に行ってきたのですが、その前に予習をかねて今授業を受けている認知脳科学の教科書『イラストレクチャー認知神経科学―心理学と脳科学が解くこころの仕組み―』を読み返したんです。すると前書きに
「こころと脳が本当はどんな関係なのか」わかってないから「このだれにも解けない問題を当座棚上げにして、『こころとは脳活動(を源とする主観的体験)である』という作業仮説にのっとり」
とありました(一部中略)。こころと脳の関係はとか心脳問題、意識のハードプロブレムとかいわれる
んですが、ハードプロブレムというだけあってむちゃくちゃやっかいな問題なんですよね。で、ワークショップでも哲学屋さんが神経科学者さんにそのことについて突っ込みを入れてましたが(一体脳の働きと「一人称の、つまり<私>の美しさ」はどう関係しているんだ、というように)、いまのところは棚上げにするしかなくて、そこで立ち止まるよりも仮説をたててひとまず進んでみるほうが有益なのだろうな、と。


(哲学以外の)学問というのは素朴な、たとえば科学者が自分の持ってるfMRIという技術をつかって美について調べられるかもしれない、と思うようなところから始まっていて、「それを言っちゃお仕舞いよ!」を避けるため(このことばを突き詰めるのはここではめんどいからやらないけど)合理性とか有用性とかで一応の合意を作って進んで行く、のかもしれない。
哲学的反省というのはいつもななめ後ろらへんからやってくるのかもね。