2012年3月28日水曜日


夕方になって雨が降るだなんて思いもしないような、そんなお天気だった今日の昼。梅が咲いている公園があって、紅と白がとってもきれいでした。桜はにじむような美しさで、梅は匂いたつような美しさだと思う。

私の故郷には臥龍梅という、龍が横たわる姿にたとえられる奇妙にねじれた格好の梅があり梅園になっていて、春になると梅まつりなるものが開かれていた。

小学校のとき…秋の終わりか冬だか忘れてしまったけど、図工で版画を作る授業があって私は臥龍梅を描こうとしていた。
花も葉もない季節に見たままを描いたから当然枯れ木としての姿で、でもそれは我ながら上手く描けていたように思う。
でも、先生は私に花を描くように勧めた。先生がなぜそう言ったのか覚えてないし、何も理由なんてなかったのかもしれない。でも私は先生に対してはあまりに素直な子だったから、先生に従って花を描き足した。でも、それは幹枝―私は横に寝た木の全景を描いていた―と全く大きさの合わなかった。花びらひとつひとつまで大きくなりすぎて、数はあまりに少な過ぎた。
そのとき、私は一抹の悲しみを覚えていたのかもしれない。なんだかどうしようもないまま彫って、刷って、でもやはりだめだったんだと思う。枯れ木は枯れ木のままであるべきだったんだと。見たものそのままを捉えるべきだったんだと。白と黒の世界で、少なくともそのときは花を表すことなんてできなかったんだと。

今日の梅を見ながらそんなことを思い出していた。

そして、ふとこの前撮った写真を思い出して。全く違う木であってもその臥龍梅の冬枯れに、そしてかつて私が表したかった絵に似ている気がして、ああ、もういいんだと思った。何がもういいのかもわからないまま。

そんな梅のはなし。


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