2012年7月2日月曜日

からっぽの帝国を見てから考えていたこと、と田中への少しの感想


みんなの批評を読んだらもう大体満足しちゃって、あまり残されていない余地を攻めようとしたらずいぶん奇妙な文章になってしまった。読みづらい。もはや何をいいたいのか見失ってしまって、不親切なばかりの文章になってしまった。しかしあまり精密に書く気もない…。ともあれ、もはや批評でも感想でもなくなってしまったけど考えたことを書いてみました。演劇人でない者の横槍に過ぎないかもしれませんが、表現人の端くれとして。


殆どの言いたいことは僕よりうまくゼミのみんなが言語化してくれた。
おおむね私の言いたいこともそこに書かれているから、たぶんそれを読んでくれたら事足りるかもしれない。

@_kanata
セリフの練られてなさなど
http://happytrash08.blog65.fc2.com/blog-entry-131.html
@soe_ren
設定の活かしきれていなさ
http://blue-panorama.tumblr.com/post/25292372617/2012
@donkeys__ears
全体的に、他の芸術にもからめた批評
http://d.hatena.ne.jp/donkeys-ears/20120615/1339723318
@rtanaka0623
からっぽの歴史ロジックのもろさ、セリフが観客の想像力に追いついていないことなど
http://berceuse0509.blogspot.jp/2012/06/2012_18.html
@sugar_thought
演劇の立ち上げ以前の段階について
http://sugarthought.tumblr.com/post/25373882346


「いま、ここ」に歴史を引きつけることの意味を考えていた。いつの間にか思考は場所、つまりこの駒場という場所へ偏っていたのだけど。

さて、どこからゆこう?…劇中で一番印象に残ったセリフをあげてみようか。
「世界を変えるのは認識なんかじゃない、行動なのだ」
あるいは、立て看板にも書いてあったこの言葉。これも神条のだったか。
「世界を変えるのは俺でなければならない」
レジスタンスのリーダー、神条のいったこの言葉は三島由紀夫の『金閣寺』にある言葉をほぼそのままなぞっている(と、気づけたのは三島名言botのおかげだったりする)。
からっぽの帝国が描きだそうとした「歴史」というものは非常に重層的なものなのでしょう。星間植民というSF要素、学生闘争、科学技術、テロリズム、人種問題などなど、多種の設定を並べていた。
一方、舞台は常に古い大学の教室をイメージさせる場所で進行していて、先述の三島のセリフの直接的な引用や、(これは完全な主観ですが…)神条のどこか三島を連想させるような様子はやはり1960年代の学生闘争と三島由紀夫(の思想らしきもの)がこの劇のベースなのだ、と感じていた。(あるいはさらに三島的な要素、あるいはほかの作家の思想などが含まれていたかもしれないが、三島の作品はほとんど読んでいないので拾いきれなかったものもあるかもしれない)。さらに言えば、その他の設定はあくまで後付けにすぎないようになってしまっている、とも。

誰かの作品からことばをそのまま自分の作品へ引用するというのは、それが思想的なものであるとき途轍もなく難しいことなのだと思う。脱構築、あるいは換骨奪胎に失敗すればそれはひどくお寒いものとなってしまって。その言葉の背景を引き受ける覚悟はあったのだろうか。
「世界を変えるのは認識などではない。世界を変えるのは行動なのだ」
僕にはそれは失敗したように思う。
(個人的には、三島由紀夫自体もそんなに思想として強固だとは思えなくて思想コンプレックスにも見えることがあって、それを引っ張ってくるのもどうかとは思うけど、きちんと研究したわけじゃないので深くは追及しない)

このセリフはいったい私たちに何を向けているのだろう。
ここで、1969年の歴史へと立ち返ってみたい。

一つの歴史。1969年、5月13日。東京大学駒場キャンパス、900番講堂。
三島由紀夫と東大全共闘との討論が行われたという、歴史のひとつ。
舞台の2階建て構造の教室という空間、駒場で上演するということ。学生闘争自体は安田講堂が象徴的であるが、この劇においてはやはりこの駒場という場所、三島という人物との呼応を強く感じる。

三島由紀夫vs東大全共闘 1969,5,13 東京大学駒場キャンパス900番講堂:


これが当日の実際の映像。これを見て気づいたことのひとつに「笑い」の存在である。議論の内容は切実なもので、時に罵声もあがることがある。それでも笑いがあがる。これはどういうことなのだろう。
討論後、全共闘にあてた三島の言葉を引く。

討議を終えて 砂漠の住民への論理的弔辞
概して私の全共闘訪問は愉快な経験であった。東大教養学部を訪れるのは、昔、大学卒業後、呉茂一先生のプラトンの講義を盗聴しに行つて以来であるが、裏門から入ればよいと教へられて入つた構内は意外に広く、私は何人かの学生に道を訊きながら会場を目指した。あとで聞いたことであるが、「民青」によって広告のビラが全部はがされてゐたので、会場を指示するいかなる標識も見られなかった。正門の左側の九百番大講堂の前へ行って、初めて私と全共闘とのパネル・ディスカッションを広告する立看板に出会つた。すでに会は三十分前から始まつてをり、そこで学生の前説の演説が行はれてゐる模様であつた。場内は満員で、玄関のところもひどい人混みであつたが、私はどこから入つてよいかわからず入口のところでうろうろしてゐた。
ふと見ると、会場入口にゴリラの漫画に仕立てられた私の肖像が描かれ、「近代ゴリラ」と大きな字が書かれていて、その飼育料が百円以上と謳つてあり、「葉隠入門」その他の私の著書からの引用文が諷刺的につぎはぎしてあつた。私がそれを見て思わず笑つていると、私のうしろをすでに大勢の学生が十重二十重と取り囲んで、自分の漫画を見て笑つてゐる私を見て笑つてゐた。その雰囲気自体から私はすでにこの会合には笑ひが含まれているといふことに気がついた。その笑ひは冷笑であり嘲笑であつてもよいが、少くとも人は笑いながら闘ふことはできない。

この900番講堂の、闘うに適さないと評されるほどの明るさはいったい。
バリケード・解放区・不可能性の空間・調整理念、これらの言葉でそれを考え、そして劇場、駒場小空間へと戻ってみようと思う。

三島との討論にあたって、それを潰そうというゲバルト(学生のセクト間の武力闘争)が起こりうる可能性はあったのらしいが、どうやら潰そうという動きよりも、どの党派の人々も喜んで見に来た、というある種の明るさのある空間だったのらしい。
そこにおいてあるのは虚構におけるバリケードの明るさ。

芥 天皇制というのは虚構としての天皇制であって、党派が憂鬱なのはどうしたって党派というのは天皇制との関係で成立するわけですよ。それにたいしてバリケードっていうのはそれらの関係が全部切れるから、そういった意味では、新しいゼロ記号なのであって、嫌な言葉だけど、事物そのものが持つ真理の光みたいなものが、もういちど照らし出される、関係が焼かれて行く、時間とも空間ともいえないんだけれども。
(三島由紀夫vs東大全共闘1969-2000 より)


900番講堂にあった空間というのは、当時それに関わった全共闘の一人に言わせればそのようなものであったのらしい。明るい解放区。

しかし、それが一時的なものにすぎない空間であるということは認識されており、三島の没後、1999年に行われた『三島由紀夫vs東大全共闘1969-2000』誌上での討論ではその意義を「不可能性の空間の賭け」という言葉で語っている。
虚構性で現実を測り、持続させる難しさは認めつつなにかそこを起点にものを考えるきっかけにならないか。それがバリケードによって作られた解放区に託される機能なのだ、と。

さて、ここで私は演劇へと立ち戻ってみる。持続不可能性というはかなさを抱えながら、その異常なる突出した空間が日常を照らし、我々の日常へ問いを投げかけるというのは、あるいは演劇のもつ機能ともいえないだろうか。

駒場で43年前に実際に起こっていた、空間を占有していた歴史。
それを再び演劇と言う形で物語に立ち上げなおすということ。
その意味はなんだろう。

駒場小空間を占有し、観客を劇場の空間に、時間に閉じ込め―時間の、空間の、バリケードと言ってもいい―、演劇を行うことの意味。

劇場空間という解放区が照らすものはなんだろう。

それは紛れもなく観客の日常であり、変容を促されるのは観客の「認識」ではないのか。
…ここで認識論に踏み込むつもりはない。しかし、そのまるまる引用した言葉を、演劇という装置のなかで使うことにどこか白々しいものを感じていたことは確かだ。
からっぽの帝国は果たして「解放区」となっていただろうか。残念ながら否だと私は思う。笑いのなかにあって解放区が成立するならば、客席が解放区としての劇場の一部となるために笑いが必要ならば、それは失敗している。
つまり、そういうかたちで歴史を引き受けたのではないということだ。
私は潜ってみる歴史をまちがえたのだろうか。1969年の900番講堂へ三島と学生闘争とこの駒場キャンパスの結節点へ向かうことは誤りだっただろうか。もしそうだったとしても、現実に対置される解放区という理念を掬い出せたのはひとつの収穫だろうと思う。

現実に対置されえないことすらも「からっぽ」という言葉に含まれているのか。その空疎さは狙って作られていたのかもしれないけれど。世界の変わらなさのメタ構造。だからといって観客の認識が変容しえない(少なくとも、劇の後半、舞台が酷く遠くに感じられた私にとっては、変容しえなかった)というのは、すこしばかり残念なことだと思うし、それを皮肉としてやるなら、この劇はあまりに長すぎる苦行ととらえざるを得なくなってしまう。
そんなまどろっこしい皮肉とは解釈したくない。観客に来たことを後悔させない(楽しませる、とは限らなくたっていい)ことは彼らの目指すものの一つであるはずだと思いたいから。ただ少し足りなかっただけなのだ、と。

ついでのように書くのは申し訳ないけど、もうちゃんと感想や批評を書けるほどの記憶も熱もないからもうひとつの劇についても言及しておく。
この解放区としての演劇をよりうまく実現したのは、からっぽの帝国の一週間前に上演された劇団綺畸の『あの日踊りだした田中』ではなかっただろうか。
詳しい批評はまた@donkeys__earsの書いたもの(http://d.hatena.ne.jp/donkeys-ears/20120610)を見てもらえればいいとして、駒場三劇団のなかでは福島第一原発の事故以降初めてそれを直接意識させる形で、それもある程度納得できるクオリティーで、笑いとともに観客が劇のなかへ内在できるかたちで作られた劇だったように思う。
とても扱いづらいまさに今の我々を照らすテーマであることから、脚本作りには苦心したのではないかと思う。公演前配布のパンフレットで演劇は闘争だ、とかいうように書いていたのにはにやりとさせられたように思う。

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